ドキュメンタリー映画「ウリハッキョ」について

本日は517日に上映する映画「ウリハッキョ」のご案内です。

 この映画は札幌の北海道朝鮮初中高級学校を舞台にしたドキュメンタリー映画で、元々は韓国・ソウル出身でニューヨーク大学映画学科を卒業した趙恩聆(チョ・ウルリョン)監督の手で制作が進んでいました。

 

 しかし趙監督が不慮の事故で急逝したため、夫である金明俊氏がその遺志を引き継いで撮影を進め、3年間の密着取材の末に完成した渾身のドキュメンタリーです。

 

 金監督は取材のために学校の寄宿舎に住み込んで(!)撮影を続けたほどで、映画にはウリハッキョに通う子どもたちの日常の姿や学生一人ひとりの素顔が瑞々しく映し出されています。

 

その一方で、カメラは朝鮮学校が「日本」と「北朝鮮」という国家間の関係の狭間で揺れ動く姿も捉えます。北朝鮮への修学旅行からの帰路、新潟港での下船時に学生たちが日本の運動団体の抗議活動によって足止めされるシーンは非常に象徴的です。

 

 ときに国家の都合に振り回されながら、それでも民族の言葉とアイデンティティをつないでいくために守り育ててきたウリハッキョ。そこで学ぶ子どもたちの姿を追った映画は国際的にも高い評価を受け、特に韓国で大きな感動とともに迎えられました。

 

 2006年に釜山国際映画祭ウンパ賞(最優秀韓国ドキュメンタリー章)を、2008年に大韓民国映像大賞最優秀賞をこの映画が受賞したことが、その大きな反響の一端を物語っています。

 

 517日のイベントではこの映画を上映しますが、ただ普通に流すだけではなく、この映画にこめられたメッセージをさらに膨らませるような形にできるよう企画の内容を練っております。

 

 

 イベント当日にご期待ください!

コマプレスの新作映画「60万回のトライ」について。

昨日ご紹介したコマプレス制作映画の宣伝です。

 

現在、大阪朝高ラグビー部の姿を追った「60万回のトライ」という映画が上映中。全国各地で大反響を巻き起こしています。

東京での上映も毎回満員で、上映期間を何度も延長する大盛況の状態です。

 

ラグビーというスポーツに打ち込む大阪朝高生たちの熱い姿。その姿を通じて浮かび上がる「ウリハッキョ」の歴史。

 

感動感涙感激必至の大傑作です!ぜひぜひお近くの劇場に足を運んでみてください。

 

※追記

東京では渋谷のアップリンク523日まで上映中です!

 

詳細はこちらから!⇒http://www.uplink.co.jp/movie/2014/25998

ドキュメンタリー映画「東日本大震災 東北朝鮮学校の記録」のご紹介

今日は518日のイベントで上映するドキュメンタリー映画「東日本大震災 東北朝鮮学校の記録 20113.153.20」と「東日本大震災 東北朝鮮学校の記録 After School」について紹介します。

この二つのドキュメンタリーは、コマプレス(http://www.komapress.net/)という映画制作団体によって撮影された映画です。

 監督は韓国・ソウル出身の朴思柔(パク・サユ)監督。監督は韓国のネットワークTVの現地派遣記者として来日して以来、在日コリアンの現状をニュースや映画などを通じて伝えるための活動を積極的に行い、在日コリアン三世の朴敦史氏と共にコマプレスを設立しました。

 コマプレスは東日本大震災が発生した3日後に東北入りし、東北朝鮮学校という「場」を中心にして、被災した在日コリアン社会の姿を記録しました。

 

 震災発生直後の315日から320日までの記録をもとに制作した「東北朝鮮学校の記録 20113.153.20」は、2011年の山形国際ドキュメンタリー映画際で初上映されて以降、全国各地で上映会が行われ、震災から半年後の東北朝鮮学校の姿を追った「東北朝鮮学校の記録 After School」の上映会も各地で催されています。

東北朝鮮学校への補助金は何故打ち切られたのか。

 東日本大震災で甚大な被害を受けた東北朝鮮学校に対して、宮城県が突然の補助金打ち切りを決定したのは、震災から一ヶ月とたたない3月末のことでした。

 

 その理由として挙げたのは、前年の201011月に北朝鮮と韓国の間で発生した砲撃事件です。当時の菅政権は、南北が互いに領海だと主張している海域で韓国が行った軍事訓練に対する対抗措置として、北朝鮮延坪島を砲撃したことを理由として、あろうことか当時進めていた朝鮮学校を高校無償化政策の対象に含めることを検討する審査の中止を指示しました。

 

 宮城県は国のこの決定を理由にして、平成23年度から補助金を交付しないことを決定した一方、凍結していた22年度分の補助金については、震災の被害に対する「人道的な見地」という恩着せがましい理由で交付しました。

 

 半世紀近くにわたって日本社会と共生してきた東北朝鮮学校に対する補助金を打ち切ることと「朝鮮半島の情勢」がどのようにつながるのか。

 

どうしてそんな理由で、子供達の「学ぶ権利」という最も基本的な人権を侵害しようと思えるのか。

 

東日本大震災の惨禍の中で日本社会に「きずな」という言葉がこだましていた中、朝鮮学校は無造作に切り離され、ただ疎外されたのです。

 

 

毎日更新第三弾です!

今日もギリギリになってしまいましたが毎日更新はちゃんと続けますよ!

 

今回の内容は東北朝鮮学校の補助金問題。

現在、宮城県は支給をしていませんが、そのキッカケは2010年の延坪島砲撃事件でした。

 

え?なんで隣の国の軍事衝突が補助金停止のキッカケになるの?と思いましたね。

 

普通に考えたらそうなるのが普通でしょうが、その普通がまかり通らないのが昨今の日本社会のワケの分からないところ。

 

なんと「朝鮮学校北朝鮮の学校だろ!だったら延坪島砲撃事件を理由にして補助金を凍結するのは当たり前だ!」という理由で県は一方的に補助金の支給を凍結したのです。

 

 

そしてこの理不尽としか言いようがない朝鮮学校の排除は、県だけではなく国自体の姿勢が生んだものでもありました(明日に続きます)。

毎日更新第2弾です!

アンニョンハセヨ!

 

ちょっと今日は色々と立て込んでいたので日付変更一時間前のギリギリですが、ちゃんと毎日更新は続けます!!!

 

さて、今日は2日目の企画「東日本大震災と東北朝鮮学校」の舞台となる、東北朝鮮初中級学校について簡単にご紹介させていただきます。

 

北朝鮮学校の開校は1965年、今年で創立49年、来年には創立50周年を迎える歴史のある学校です。

 

東北地方の在日コリアンの民族教育の拠点としてこれまで歴史を刻んできましたが、東日本大震災の被害で校舎を失い、現在は寄宿舎を改築した仮校舎で授業を行っているという非常に厳しい状況ですが、東北地方の民族教育の火種を絶やさぬため、教職員の先生方は毎日大変な思いをしながら学校の運営を続けています。

 

北朝鮮学校の法的な地位は「各種学校」扱い。本来であれば震災による校舎再建には費用の半額の補助金が出るにも関わらず、申請しても支給されない状況が続いています。

 

なぜそのような状況にあるのか。その背景には2011年、東日本大震災が起こったまさにその年に、宮城県知事が東北朝鮮学校への補助金を停止したという事情とおそらく無関係ではないと思われます。

 

明日の更新では、この補助金停止の経緯について書きたいと思います。

毎日更新第1弾!!

さあっ!

いよいよ五月祭まであと20日を切りました!

現在ウリサポスタッフはイベント成功のために全力で突っ走っておりますが!

この特設ブログでもそれに負けじと!今日から五月祭当日までの間!

 

「毎日更新!」

 

を実施します!

 

「あなたの隣のウリハッキョ」と「東日本大震災と東北朝鮮学校」の両企画を120%満喫するためのホットな最新情報を最速デリバリー!!

 

これは見逃せませんねっ!♪

 

と、いうわけで第一弾更新は基礎知識の確認から。

 

皆さん、テレビのニュースや新聞では目にすることがあっても、実際に朝鮮学校がどうして日本にあるかと考えると知らないこともあるんじゃないでしょうか。

 

朝鮮学校の始まりは、1945年8月の終戦間もない頃から始まります。

 

終戦によって日本の植民地支配から解放された在日コリアンは、植民地時代には許されなかった、自分たちの言葉や民族性を伝えるための教育を始めようと、日本の各地に「国語講習所」を建て始めました。

 

今の日本ではどこに行っても見つからないような、トタン板とむき出しの柱で作ったようなお粗末な講習所。朝鮮学校の歴史は、そんなボロボロの国語講習所から第一歩を踏み出したのです。

 

国語講習所から始まった朝鮮学校は、1946年の9月には早くも6年制の初級教育課程を備えることになり、同年10月からは中等教育の実施も始まるなど、急速な成長を遂げました。

 

教科書の編さん委員会もつくられ、1948年4月までの2年間に92点、100万部もの教科書と教材が作成されています(この教材作成には、日本人の教育関係者有志による大きな助けがありました)。

 

しかし、順調な発展を見せていった朝鮮学校に最初の試練が訪れます。

 

朝鮮人が自分たちで勝手な教育をしている」という事実に根拠のない不安と偏見を持った日本当局が、アメリカ占領軍(GHQ)と手を組んで朝鮮学校の閉鎖に動き出したのです。

 

朝鮮学校を守るために立ち上がった在日コリアンは、一致団結して日本当局とGHQに抵抗しました。とくに1948年4月24日に起こった4.24教育闘争での闘いは激しく、二万人もの在日コリアン大阪府庁前に結集したことに恐怖した日本警官隊の銃撃によって、当時16歳だった金太一少年が尊い命を落としました。

 

民族教育を守るための在日コリアンの願いと抵抗を見ても、日本政府は考えを改めることはありませんでした。逆にいっそう激しい弾圧に走ります。

 

そして1949年10月、朝連の強制解散の直後に「朝鮮人学校閉鎖令」が出され、全国的な広がりを見せていた朝鮮学校の成長の芽は、権力によって強引に踏み潰されてしまいました。

 

だけど朝鮮学校は一度や二度の困難ではめげません!

 

日本当局とGHQによって強引に解散させられた後も、民族教育をつないでいくための運動は粘り強く展開されていきました。「在日本朝鮮人総聯合会」(総連)の結成後、朝鮮学校は再び組織的に発展し、全国に初等部、中等部、高等部までの一貫した教育体系を備えた朝鮮学校が組織されます。

 

1956年には朝鮮大学校が創立され、1968年に学校法人の認可を獲得しました。その後も朝鮮学校の法的地位を確立するための運動は続き、1975年に山陰朝鮮初中級学校が認可を得たことで、日本に広がる全ての朝鮮学校が、民族教育を続けるための法的な正当性を勝ち取ることになったのです。

 

 

 ・・・・と、ここまでが朝鮮学校の成り立ちを理解するための簡単な歴史のおさらいです。

 

5月17日の東京大学五月祭では、そんな朝鮮学校の「今のすがた」を知るために、2つの学校に登場してもらいます。

 

1日目に登場するのは、ドキュメンタリー映画「ウリハッキョ」の舞台になった、北海道は札幌市の北海道朝鮮初中高級学校。

 

2日目に登場するのは、忘れもしない3.11の震災に直面した宮城県仙台市にある東北朝鮮初中高級学校です。

 

明日からはこの2つの学校について、もっとクローズアップして取り上げていきたいと思います。